イメージを追って

2020.11.02

自分自身の内のイメージを明確にする作業が何よりも大切だと、最近よくおもいます。

何をするにしても、最初にあるイメージによって物事の結果やカタチが決まるから。
結果の積み重ねがイメージになるのではありません。全く逆で「こうしたい、こうなりたい」からそれがあるのです。

しかし、イメージの要素になるものは過去に何を見たり、感じてきたのかによるとおもいます。
生まれてから、今まで、どんなものに感動して好きになったり、嫌いになってきたのか。

人、言葉、もの、場所、風景、匂い、音、味、感触・・・・。

何も感じない人はいないはずで、意識的にも無意識的にも自分の好むものを選び、嫌いなものから離れるを繰り返します。その中から、一定のリズムが自分のイメージとなって生まれてくる・・・。

自分のイメージを上手く顕在化できるようになると、本当に欲しい物を選択するときや、つくるときにとても役に立ちます。逆にそれがないと、誰かの言いなりになって、常に曖昧で無駄に疲弊し、後悔する・・・を繰り返してしまう、そんな気がします。

イメージを顕在化するなんて、難しい作業のような気がしますが、とても簡単で楽しい作業です。
好きなものだけ集めて、並べて、眺めていればいいのです。写真でも、本でも、物でも、何でも良い。
大事なのは少しでも嫌いなものは徹底的に排除する。我慢しない。それだけです。

自然と自分の意識的な「好き」と無意識的な「好き」が見えてくるのです。

僕の場合、それをやり続けて最近浮かんできたのは、とても抽象的なイメージなのですが、「明るくて、金属的なもの」のイメージでした。

文学の中で感じたのは、リルケの詩集の「時祷集」の冒頭部分。僧院での内的な祈りの詩ですが、静寂の中で鐘の音が響き渡るように、世界と自分との位置を捉えようとする美しい文章は印象的。

プルーストの「失われた時を求めて」の「スワン家の方へ」の全体に通じる鐘堂の描写。
教会の鐘の音が、街中に響き渡り人々の生活と思考に深く影響する様は、実際にフランスに行った時に聞こえてきた鐘の音で、より深いイメージとして立体的に心に刻まれました。

音楽ではフランスの作曲家のピエール・ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」を聞いた時。
多種多様な楽器編成で構成されている調性の無い現代曲ですが、最初に聞いた時の金属的な色彩的な音のイメージの美しさとスタイリッシュさに衝撃を受けたことを思い出します。
フランスの近代以降の作曲家は特に特有のイメージを持った人が多いと思いますが、ドビュッシーは言わずもがな。
まるで七色の光彩がそこに見えるような、ハーモニーやリズム。自分でもピアノを演奏して思うのは、彼らが生活した土地での教会の鐘の音や光が無意識的にも意識的にも彼らのイメージの中に強く入り込んでいただろうことです。

日本人の作曲家で特に大好きなのは武満徹。初期の作品から、晩年の作品まで個人的に感じるのは、やはり金属的な音の捉え方だとおもいます。音の響き合いが、寺の鐘のようにゆらいでいるような、儚げな美しさはとても日本的だといわれましたが、不思議とフランス人のファンが多いというのも納得できます。
後期に作曲された「ストリング・アラウンド・オータム」はフランスのアートフェスティバルのために作曲された作品ですが、まさにフランスの地形や匂い、音や光が伝わってくるようなまるで映像のようなとても美しい作品で、僕の大好きな曲です。

他にもアートの話はきりがありませんが、ヨーロッパ特に、フランスの彫金作品などもそうですし、
絵画や映像も、そこにはない音が聞こえてくるような色彩的な立体的な作品に強く惹かれます。

どれも高校生くらいの時に感動したものばかり、今になるまでその繋がりにはっきりと気付くことはありませんでしたが、ある時にそのどれもに同じようなイメージが隠されていることに気付く瞬間がありました。

重なり合い、混じり合い、多層的で多角的なイメージが持つ美しい広がり。
昔から、今も、これからもそのようなイメージを求めて何かを選択したり、作ったりするのだと思います。
僕の場合は「明るくて、金属的」なイメージでしたが、ひとそれぞれ、一つとして同じイメージはないはず。

誰になんといわれようとも、自分が大好きだと思うものを「大好き!」だと大声で言い続けること。
それが人生を幸せに生きることだとおもいます。